久々の墨象

先日budmusicスタッフでもある小山恵莉さん書作展「未熟/未来」を京都のギャリエヤマシタ1号館で見てきた。

たくさんの「未」。
大きな「未来」という文字を目の前にして、そうか、未来というのは未だ来らずなんだなと不惑四十を目前にして改めてその意味を突き付けられた。未来はいつまでも来ないままそこにある。待つことができるということは幸せなこと。
勢いのある、とてもよい展示でした。

数日前に恵文社コテージでノンマイクワンマンライブをおこなったところだったので、書作というのは後から手を加えて修正しないという部分が音響機材のない弾き語りと似ているななんて思った。
展覧会初日ということもあって次々と来場者があったのでそろそろ御暇しようかと思っていたら、師匠とお弟子さんの作品展も2号館で開催しているのでどうぞといわれ、少し覗こうとギャラリーを出たところちょうどそのお師匠さんとすれ違った。

近隣にはいくつもギャラリーがあり、書とは全く関係のない展示をしているギャラリーに入ってしまい、祇園祭の絵が展示されていてあれ、書道じゃないわと間違ったことに気づき、改めてギャリエヤマシタ2号館に入ったところそのお師匠さんも会場に戻ってこられ、挨拶してくださりお話をする機会をいただいた。

僕は昔、墨象と呼ばれる前衛書道に強烈に惹かれていた時期があった。
思い出しても、いつ何をきっかけに好きになったのかが思い出せない。
19歳の時に受けた美術館アルバイトの面接ではすでに墨象が好きですという生意気なことを答えたのでおそらく十代。
当時は墨象関係の書籍や情報がなかった。
今みたいにさっと検索にかけた小さな情報を遠い世界から簡単に引っ張り出してこられる様な時代ではなく、大型書店や古書店、画廊ニュースでの書道関係の情報を目を皿のようにして追いかけた。
その時に、書店で一冊の本を見つけることになる。
「現代の書芸術ー墨象の世界」というもので、おそらく墨象のみを、墨象とはなんぞやを取り上げたボリュームのある本は当時これだけだったと思う。
購入してそればかり眺めていた。

その頃ちょくちょく東京に遊びに行ったついでに、古本屋で墨象関係の本について尋ねたこともあった。
「京都の方がたくさんあるんじゃないですか」みたいなことも言われた。
宇野雪村という人の作品集をそこで買ったと思う。でも本当に欲しかったものが、比田井南谷という人と、森田子龍というその二人の作品集。そもそも作品集があるのかどうかもわからなかった。
「現代の書芸術」という本で紹介されていたふたりの作品が強烈で、字でもあり絵のようでもあり、なんとも言えない墨の表現に心を奪われてしまった(「現代の書芸術」はネットで検索すると1997年10月1日発売日とあるので約20年前のこと)。

比田井南谷と森田子龍というそのふたりの名前は、自分の周りで出会った人の中には知っている人がおらず、書道関係の方に会ったら知っているかどうか聞いてみようとずっと思ったままその機会もなく放置してしまっていた。

ギャリエヤマシタ2号館で祥洲さんという小山恵莉さんの先生とのお話の中で森田子龍について尋ねた。
尋ねたところ、逆になんでその名前を知ってるのと質問され、経緯を話すと祥洲さんがとても尊敬している先生でありお付き合いがあったこと・比田井南谷についても作品集を出している出版社のことを教えて頂いたり・そもそも祥洲さんは「現代の書芸術」の本作りに関わっておられたこと等々がわかった。
多感な自分の20年がギュッと圧縮されて目の前にあるような気がして眩暈がした。

ちなみに比田井南谷も森田子龍もネットで検索をすれば簡単に作品画像が出てくる便利な時代になっているので、是非見てほしい。
雰囲気くらいはわかってもらえると思うがやはりいつ見てもすごい。

一番初めに自主制作で作った2枚のCDR作品のジャケットは墨象にした。好きな作品を自分でコラージュしてデザイナーさんに依頼した。それくらい墨象にハマっていた。
やがて墨象から具体美術やダダ、シュルレアリスムに関心を広げた。美術や哲学関係の難解な文章の本もわからないながら読み進めた。

歌い始めるよりも前の話。
                                                                                                                                                                                                      
芸術や表現は、その他すべてのものと同様に消費される。
信仰すらも消費の対象となる。
芸術や表現には、原価というものがない。
つげ義春の「無能の人」のように値段のないものに価値をつけて売るようなものだ。
作品制作や、またそれに必要な技能の修練のための時間には値段のつけようがない。
でも時間をかけて出来上がった作品こそが魅力を湛えるわけでもない。
ランボーは自らを詩人ではなくアフリカを放浪した貿易商人だという認識でいた。
換金したり、経済活動と寄り添うことでたちまちバランスを崩すことが一見純粋に見えたりする芸術。
芸術とは一体何だ。

墨象にハマっていた頃、フリージャズを熱心に聴いていたことを思い出す。

決まったビートやコードのない音楽には、フリージャズと呼ばれたものもあればフリーインプロビゼーションと表記されるものもあった。どちらも即興演奏と呼んでいた。

当時ハマったカンテファンという演奏家の演奏は、ジャズかどうかということはどうでもいい、音を出すということはどういうことなのかという深い問い掛けだけがそこにあるというものだった。ライブを見て買ったCDを聴きながら、とても綺麗な音楽だと思った。

一人きりの即興演奏はいかなる音楽ジャンルからも縛られることがないまま、いつの時代にも、どんな国や地域にも存在する。
ロックやジャズやクラシックはいずれ無くなるかもしれないが即興演奏だけはなくならない。即興演奏という概念はなくなるかもしれないけれど。
綺麗な即興演奏を聴く行為は、突然に何らかの自然の音や機械音なんかが綺麗に面白く聴こえる体験と似ている。

10代の頃に何の予備知識もなく見た墨象も、とても綺麗だと感じた。
例えば街で見かけた壁の色や景色の朽ち果て方が綺麗だと感じるのと似ている。

綺麗な即興演奏も、綺麗な墨象もひとりの人間が必死で立っている姿そのもののようにみえる。
綺麗かどうかは主観の問題だということは承知の上で、即興演奏も墨象もどちらも笑ってしまうほど難解で単純な表現だ。
それに向き合うにはこちらにもある程度の覚悟が必要になる。

20年ぶりに今度は向こうからやって来た墨象。
また情報を得て見に行きたい。

情報はこんなにも得易い世の中になった。